新井用水「水のめぐみ」コンプ

さぁ、播磨の街角コンプリートが楽しくてしかたがない播磨孤道です。

みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

先日のことなんですけどね、JR東加古川駅からずっーと南に行ったところにすごく細い川が流れてたんですね。(川というよりは溝と言ったほうが正しいかもしれないです。)

で、普通だったらそんな川いくつもあるんで無視して行っちゃうところなんですけど、そこにある立て札みたいなものがあって、そこにはこう書かれてたんです。

新井用水「水のめぐみ」

と。

なぜか興味がでたんで、写真だけとってその日はそのままウチに帰ったんですよ。

で、後からその写真をみると、どうやら次のようなことが分かったんです。

  • 新井用水(しんゆようすい)という水路が日岡山の北〜播磨町まで流れている
  • どうやら今里伝兵衛(いまざとでんべえ)という人が水路を作ったらしい
  • そして、8カ所のチェックポイントがある

そのとき昔社会の授業で、先生がそんなこと言ってた気がするなーって思ったんです。

じゃあ、せっかく8カ所も行く所があるんだから全部コンプリートしてみよう!ってことで行ってきました。

名づけて

新井用水「水のめぐみ」コンプ

です!

では、さっそく新井用水の出発点、加古川大堰に向かいましょう。

シュワッチ!

・・・といいつつ、加古川線で向かう私(笑)

で、JR神野駅で降りて、近くの加古川大堰に到着しました。

※この記事の地図は地理院地図を加工して使っています。

すると、加古川大堰公園でこんな立て札を発見!

(以下引用)

新井用水「水のめぐみ」

新井(しんゆ)用水は加古川八幡町からの加古川大堰から播磨町古宮の大池まで農地へ水を送る約14Kmの水路です。
新井用水の歴史は古く、1656年播磨町古宮の大庄屋今里傳兵衛(いまざとでんべえ)が中心となって計画され、のべ16万4千人の人の努力により開通しました。
途中には河川を渡るサイホンや岩盤を削った水路などがあり、当時としては高度な土木技術が使われています。また、全線を通じて水路の高低差がほとんどなく曲がりなどを巧みに利用して水を通しています。開通後350年以上の長きにわたり、何度も改修を重ねながら、現在でも地域の農業用水として豊かな水のめぐみを与え続けています。
また、新井用水は、ホタルやカワセミなど加古川のめぐみを町並みに送る貴重な自然空間です。新井用水を上流から下流から歩けば約半日、季節毎ゆっくりめぐれば350年の水のめぐみを体験できるうるおい空間です。

新井用水に親しむ会・新井水利組合連合会
平成21年5月

 

新井水めぐりマップ

1.新井用水と五ヶ井
昭和63年建設の加古川大堰、加古川のめぐみを送る14Kmの出発点です。

2.曇川と新井用水
曇川の由来と川を横断するサイホン技術を紹介する

3.新井緑道
地形を活用した水路が四季彩かわる緑道沿いを流れる

4.昭和の歴史
用水に架かる軌道や橋の名前など80年前の近代歴史が遺る

5.ため池と水路
新井用水は多くのため池をうるおす。これは地形を巧みにりようした新井用水の特徴です。

6.傳兵衛の工夫
用水全線 14Km上下流の楽さはわずか 7m、ここに水をながす傳兵衛の工夫が随所に遺る

7.大中埋樋(うずみび)
50年前は農地ばかりの景色、加古川からの水はここ喜瀬川を超え大地へ流れる

8.播磨町大池
新井用水の終点、水鳥などの楽園、近くには今里傳兵衛の墓碑や公徳碑がある

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

ほー、なるほど。
ということは、この1〜8番までをたどっていけばいいわけか。

たぶん、下流に下っていく道だからそこまでつらい坂はないはず(昭和生まれはニッコリ)

では、今回の街角コンプ、スタートです!

1.新井用水と五ヶ井

まずはさっきの立て札の近くにある新井用水の起点で写真をとることに。

へぇ、新井水路の他にもうひとつ五ヶ井水路っていうのもあるのか。

残念ながら下には降りられないようになってましたけど、フェンス越しに写真だけは撮ってみました。

細いほうが新井用水です。

2.曇川と新井用水

では、次の曇川(くもりがわ)の近くまで言ってみましょう。

ビューン!

第2チェックポイントにつくと、こんな看板を発見。

僕が新井用水を知るきっかけになった看板のパターン違いのようです!

(以下引用)

2.曇川と新井用水

新井用水路は、加古川市から播磨町を流れる間に4つの川(上流から草谷川、曇川、白ヶ池川、喜瀬川)を横断しています。
ここ曇川は、最初の工事で川の上を横断する木製の筧樋(かけひ)という方法でした。しかし後に喜瀬川と同じ埋樋(うずみび)により、川の下を横断する方法に変更されたそうです。江戸時代初めの工事でもこうした農業土木技術により、川を横断する水を下流へと流すことが出来ました。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

ふーん、つまり昔は木で川の上を水が流れるようにしてたけど、今は川の下(地下)を通ってるってことかー。

え!それってすごくない!?

昔の人はいろんな工夫をして世の中を便利にしたんだなー(しみじみ)

ということは、これが地下に潜る入り口ってことですね。

3.新井緑道

どんどん行きましょう。

次はさっきの場所から日岡山を超えたこの場所です!

シュイーーーーン!

常楽寺というお寺さんの前にまたしてもあの看板を発見!

(以下引用)

3.新井緑道

約14kmにおよぶ新井用水路の内、国道2号線より上流では、加古川から引かれた水の恵みによってカワセミやアブラボテ、トンガリササノハガイなど珍しい生き物が生息しています。新井緑道(しんゆりょくどう)沿いでは5月末から6月にヘイケボタルなど、多くの生き物がみられ、豊かな自然環境を感じることができます。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

えっ、このあたりでホタル!?

しらなかった。。。

でも、ホタルは見に行きたいな!

えーと、5月から6月、、、、真逆じゃん(今は11月)
来年ですね。。

たしかに周りをみるとホタルとかがいてもおかしくない雰囲気でした。

4.昭和の歴史

では、次のスポットに移動しましょう。

ぴょーーーん!

新井緑道の端っこです。

近くには、小さな橋ランキングでランクインした平木橋がありますよ。

でました!またしてもあの看板です。

(以下引用)

4.昭和の歴史

コンクリート製の橋は、幅5メートルほどの新井用水路に架かっています。欄干はかなりさび付いていますが、親柱(おやばしら)には「聯隊橋(れんたいばし)」、の文字が、今もはっきりと読み取れます。名前の由来は、聯隊橋から南に約100メートルの場所に旧陸軍高射砲第三連隊の基地があったからです。また、ここから400メートルほど下流には「くんれんばし」の文字が刻まれた橋もあり、昭和の歴史の一コマを静かに語り続けています。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

へぇ、こんな場所に昔は基地があったのかー。

最近ホントよく思いますけど、自分の住んでる場所の歴史ってあんまり知らないんですよね。

またひとつ勉強になりました。

写真のうしろ側が新井緑道で、散歩道みたいになっています。

ほー、これが説明文にあった聯隊橋(れんたいばし)です。
たしかに、まだ文字がくっきりとしてますね。

5.ため池と水路

よーし、じゃあ後半戦に入りました。

次のチェックポイントはここですよ。

野口町にある中部中学校の横にある池のほとりです。


ここではこんな看板が建ってました。

※文章は加古川大堰のものと同じなので省略

まわりはこんなカンジ。左側が池です。

中部中学校側の壁には、ちょっとわかりづらいですけど「新井水路」と書かれていました。

わかりやすく加工してみました。

6.傳兵衛の工夫

さぁ、残りは3つになりました。
最後まで楽しんで行きましょう!

ぎゅーーーん!

はい、地図でもわかるようにJR東加古川駅の方まできました!

そう、ここは冒頭で書いた、僕が新井用水を知るきっかけになった看板がある場所です。

↓↓↓それが、こちらです!

(以下引用)

6.今里傳兵衛の工夫

新井用水の工事で最も苦心したのは、勾配が取れない関係で水が流れない箇所がいくつかできたことです。
傳兵衛の悩みを知った妻は、「水は勢いをつけたら、高い所へも上がるではないですか」と言って、手桶の水を腰壁にむかってぶつけました。水はパッと壁をはうようにして跳ね上がりました。
これがヒントになって、傳兵衛は水路のあちらこちらに、水の勢いをつけることができる箇所をもうけたり、曲がり角をつけたりしました。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

なるほどー。坂じゃない所でも工夫すると水が流れるようになるってわけですね。

やっぱ昔の人の知恵ってすごい!

でも、、、これって傳兵衛さんの工夫というよりは、奥さんの、、、いや、ゴホンゴホン!これ以上は何も言いますまい!!

用水路の横は細い小道になってました。でも、入り口に柵があるんで、自転車では入りづらいと思います。もしかして歩行者専用???

7.大中埋樋(うずみび)

さぁ、長かった用水路の旅も終盤です。

続いてはこちら。

JR土山駅山陽電鉄・播磨町駅の間あたりに来ました。

あの有名な大中遺跡から川沿いを南に行った所にあります。

そして、例のアレ!看板です。

(以下引用)

7.大中埋樋(おおなかうずみび)

フェンスに囲まれた見慣れない機械がありますが、ここから新井用水が喜瀬川(きせがわ)をもぐっています。用水路が川の下を通るためには、逆サイホンという技術が用いられます。
建設当初の喜瀬川のサイホン管は、松材が利用され、「埋樋(うずみび)」と呼ばれていました。天保元年(1830年)に石造りに変わり、昭和32〜33年頃に鉄筋コンクリート造りになり現在に至っています。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

逆サイホン?

逆サイフォン??

逆コーヒー???

紅茶????

ちょっと僕には難しかったですかね、、、どちらにしてもちょっと休憩したくなってきました(笑)

でも、確かに看板の奥には見慣れない機械があってそこから水が地下に入っていっているようでした。

背中にあった喜瀬川を上じゃなく、下を通って横断するんですね。

すごい技術です!

8.播磨町大池

とうとう最後のチェックポイントです!

場所はこちら!

ついに終着点の播磨町・大池までやってきました。

到着してすぐは何もない場所だったんでこれで終わりかと思いきや、、、

反対側に行くと山ほど石碑が建っていました。

ひとつずつ見ていきましょう!

まずは頌徳碑(しょうとくひ) ←偉い人を称える碑のこと。

その下にはこんな文章が。

(以下引用)

東西約二十粁(キロメートル)南北約十五粁(キロメートル)に広がる印南野台地は往古より水利に恵まれず水田は常に旱(かん)ばつによる被害に悩まされ苦しんできた
古宮組大庄屋今里傳兵衛重幸(一六一○年生)は旱(かん)ばつにあえぐ近隣二十三ヶ村の庄屋と協議し明暦元年(一六五五)正月加古川の水を西条平松の五ヶ井洗堰から分水する水路開削の大事業に着手し逆勾配をもつ当地方の悪条件を克服し古宮大池までの全長十三粁(キロメートル)余にわたる新井水道が翌二年三月に完成し、灌漑面積六百町歩石高一万石の田畑がよみがえった
依頼数多くの改修補強工事が施行されて現在に至ったが最近用水路管理方法水利慣行が改善され昭和五十九年(一九八四)加古川大堰多目的ダム建設に伴い五ヶ井堰からの分水に終わりをつげ近代的取水構造による有効利用が図られることとなった
ここに三百数十年間大地を潤してきた新井の恩恵と郷土の先人傳兵衛翁の功績をたたえて翁頌徳碑ゆかりの灯籠傍に記念碑を建立する

昭和五十九年十一月吉日
新井土地改良区

(スーパー意訳) ・・・ 傳兵衛さんのおかげで水がきて、豊かになりました。本当にありがとう! 石碑を建てますね。

 

そして、新井水路改修記念碑です。

この石碑の下にも文章がかかれていました。

※内容はさっきのとほとんど同じなので、省略します。

そしてこれも頌徳碑でした。

これは、、、漢文??ちょっと古くて読めないですね。残念。

ここにも加古川大堰と同じ看板が建っていました。

今里傳兵衛さんの説明書きです。

(以下引用)

今里傳兵衛と新井

今里傳兵衛は、古宮組19か村の大庄屋で古宮村の庄屋も兼ねていました。承応3(1654)年、播磨国(元播磨町)のあたりは春から真夏にかけてほとんど雨が降らず、池の水も干上がるほどでした。
稲はしおれて次々と枯れていきました。わずかにできたお米は大半がくず米で、来年の種もみもなかったため、江戸時代の中でこの年だけは姫路藩も年貢の取り立てをやめています。

ところが、別府川と加古川に挟まれた隣の地域では、田んぼに稲穂が実りお米が収穫されていました。この現状を見ていた傳兵衛は、五ヶ井の水を分けてもらい田畑に水を引くという計画を立て、水を利用する23か村の庄屋たちを集めました。傳兵衛の絵図による具体的な説明は、庄屋たちの心を突き動かし、全員が陳情書に署名をしました。陳情に際し傳兵衛は、「この新溝でもし水が流れないときは、家族もろとも極重の罪科をこうむっても、決してうらみや悔いは抱きません」と早期着工を強く要望しています。

藩主榊原忠次は、その綿密な計画と身命をかけた熱意に感銘し、直ちに計画をやらせ、新年早々藩の事業として着工させました。藩内から延16万4千人(8千人とも)の人足が協力し、わずか1年あまりで通水を成しとげました。

開通のお礼に参上したとき、藩主忠次は、その功績をたたえ傳兵衛の願いを聞きました。その際、「大変な恩恵をいただきながら欲しいものなど毛頭もございません。何とぞ新溝が永代異変なく存続していくよう、それだけを心から願っております」と答えています。

傳兵衛は、通水して3年後の万治2(1659)年11月12日(旧暦)に亡くなり、50歳くらいだったといわれています。お墓は、すぐ近くの古宮薬師堂の墓地にあります。

(スーパー要約)

今里傳兵衛さんは、「もし失敗したら自分や家族がどうなってもいいから、水路の建設をやらせてください!」と当時の藩主にお願いしたら、藩主が感銘を受けて計画を即実行&成功させました。

藩主が褒美は何がほしいか聞くともう水路ができて十分ですと言いました。

その後、3年後に傳兵衛さんは亡くなりました。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

うう、、、なんてかっこいい人なんだ!

そりゃあ傳兵衛さんのためにこれだけの石碑が建ってて当然ですよね。

感激しました。

今回の街角コンプをやってみて

どれだけ今里傳兵衛さんがみんなのために頑張ったのかがよくわかりました。自転車でも結構時間がかかる距離ぜんぶに用水路をつくったんですからねー。

しかも、最後の地にはたくさん石碑。

きっとみんなから尊敬されてなかったらこんなにもたくさん石碑はたってないはず。

そう思うと大池の前で少し感動をしてしまいました。

傳兵衛さん、安らかにお眠りください!

用水路は今も立派に生きていますよ。

と、いうことで今回はちょっと目線を変えた街角コンプ、新井用水めぐりに挑戦してみました。

自転車でもそこまできつい坂はなかったんで、ぜひみなさんもサイクリングがてらいってみてはいかがでしょうか。

ではでは。