離ればなれの石棺をバーチャル復元

さぁ、お気に入りのニット帽と同じのが売ってないんで、仕方なく毛玉を小さなハサミで取り除いて着用している播磨孤道です。
みなさん、いい帽子屋さん知りませんか?

さてさて、以前このブログで加古川市のヘソはどこだ!?という記事をお届けしました。

内容は記事を見てもらったら分かるんですけど、播磨孤道も長く住んでいる加古川市の中心はどこなんだろう!?という疑問を検証する内容になっています。

で、この記事の中で加古川市の中心にたどり着くことができたわけですけど、そこに石棺の蓋(だけ)が置かれていてこんな説明書きがあったんです。

(以下引用: 下に3行要約あります)

家型石棺の蓋

この石棺の蓋は、平荘湖地内16号墳(稚児窟古墳)の石棺の蓋で、弁財天神社の境内に掘り出されていたものを、平荘湖建設にともなう弁財天神社の移転にあわせて、この場所に運ばれました。
印南郡誌によれば、昔姫路城主榊原式部太輔が鷹狩りにこられた時、この石棺の身の方をご覧になって、よい泉水だ懇望され、多くの人夫が大八車に乗せて志方町の投松峠まで引っぱって行ったが、あまりにも重くて動かなくなり、投松峠に放り出して捨ててしまった、との記録があり、調査の結果、この石棺の蓋とぴったり一致するので、一対のものであることが確認されています。

材質 竜山石製
形式 縄かけをもつ家型石棺の蓋
大きさ 長さ(縄かけを除く) 二三三cm
巾(縄掛けを除く) 一四八cm
厚さ 六○cm

昭和五十六年三月
加古川市文化財保護協会

(引用おわり)


3行要約

  • 石棺の蓋と底はもともとひとつだった
  • 姫路藩主が底だけもって帰るって言い出した
  • でも重いから途中の峠に捨てて帰った

いやいや、なんちゅー奴やねん!

と、いうことはこの石棺は姫路藩主のせいで今も引き裂かれたままってことなのか、、、涙。(てか、分かってんならもとにもどしてあげりゃーいいのに…。)

いやいや、分かってます。
たかが石棺かもしれません。

でも、これが人だったらどうでしょう。

【石棺ドラマ】第一話・・・固い絆は引き裂かれ、無残にStone と捨てられた

蓋 「底さん!いつまでも二人仲良く暮らしていきましょ♪」
底 「おうよ、蓋。オレっちもそのつもりだぜ!」

(ダーンダーンダーダーダダーダーダダー♪)←ダースベーダーのテーマ

藩主 「ふっふっふー!悪いが底はもらっていくぞぅ。」
藩主 「お前は今日からウチの庭で暮らすのじゃー。」

底  「え、いや待ってくれ!それなら蓋も一緒に…」

藩主 「ならんならんならーん!ワシが必要なのは底、お前だけじゃー」

蓋  「そっ、そんなー(泣)」

手下 「ゆるせ、殿の命令じゃ。」
底  「はっ、はなせー!」

蓋  「底さーん!!」
底  「蓋ーーーーーっ!!!」

(その後、峠にて)

手下 「とっ、殿!! 底のやつ重すぎて、これ以上は運べません。(ガクッ)」
藩主 「え、マジ!? そっかー、じゃあもういいやー。捨てといて。」
手下 「かしこまりました!(ぽいー)」

(そして時は流れた…)


ってことでしょ?
これって結構ひどい話じゃないですか。

そう考えたら、この石棺の蓋と底が引き裂かれたカップルのように思えてきて何とかしてあげたくなってきたわけですよ。

でも、播磨孤道は大型クレーンの免許をもってないし、そもそも移動する権限ももってない一般ピーポー。
何も出来ないわけです。

そこで考えました。

せめてこの2人、いや2パーツをバーチャルな世界だけでも一緒にいさせてやれないものだろうかと。

そこで!
今回、前置きがだいぶ長くなっちゃいましたけどお届けする企画はこれです。

石棺の蓋と底の写真を合成してひとつの石棺に戻してあげよう!

(パチパチパチパチパチパチパチパチー)

ということで、今回はこんなカンジでスタ〜トです!

写真を取りに行く

石棺の蓋の写真は、加古川市の中心に行った時のがあるんでもう必要ないんですけど、底の部分はまだ見たこともないんで、まずは底の写真をとりにいくことにしました。

場所はこちら。
投松(ねじまつ)の交差点近くの「投松公民館」にあるようです。

現地に到着してみると、公民館の入り口近くに目的の石棺(底)が置かれていました。

横から見てみるとこんなカンジです。
中が土で埋まってました。


さらにアップした写真。

すぐそばに説明書きが立ってました。

(以下引用)

投松の石棺(ねじまつのせっかん)

凝灰岩(竜山石)製 古墳時代後期(6世紀)

この石棺の身は、平荘ダム建設により水没した池尻16号墳(稚児ヶ窟古墳)(ちごがくつこふん)の石棺の身です。
江戸時代に、鷹狩にきていた姫路藩主榊原侯が、泉水(庭の池)にしたいと運ぼうとしたが、ここ投松峠(ねじまつとうげ)で動かなくなったので、この場所にあると伝えられています。
この石棺の蓋は、現在、平荘湖畔の弁財天神社の広場に保存されています。

平成21年3月 加古川市教育委員会

(引用おわり)

んー、やっぱり蓋と底は引き裂かれたままってことなのか。
悲しい話ですなー。

でも、これで石棺の底の写真をゲットできました。
さっそくこの蓋と底を合成して一つにもどしてあげましょう!

写真を合成する

せっかくだからイラストレーターとかフォトショップとかで加工したかったんですけど、そんな高級なものは持っていないんでフリーでも相当高度なことができると評判の GIMPを使って合成することにしました。

使う写真はこの2つです。

【蓋の写真】

【底の写真】

さぁ、この2つがどんな写真になるのでしょうか!?

(作業すること小一時間…)

ひとつに戻った石棺の蓋と底

さぁ、試行錯誤しながらもなんとか写真の合成が完了しました!

それでは紹介いたしましょう!
これが、江戸時代から現代まで一度もひとつになることがなかった石棺の蓋と底です。

どうぞ!
(頭の中でアルマゲドンのBGMかけてください♪)

 

底の前に置いてあった花壇を消すのと、蓋の一部が看板の足で隠れちゃってたんでその部分を補完するのに手間取りましたけど、どうでしょう。

なんとかひとつに戻ることができたんじゃないでしょうか!?

やりました!
蓋と底にはせめてこの写真の中ではずっと一緒にいてもらいたいもんです(ニッコリ)

ふらっとウマ飯のコーナー

さぁ、播磨孤道でお届けしている、企画中にふらっと寄ったらめちゃくちゃウマかった食べ物を紹介する「ふらっとウマ飯のコーナー」です。

今回は石棺の底が置いてあった投松公民館から2キロほど東に行った場所にある、うらい精肉店さんのコロッケ&ミンチカツです!

外観です。
見ていただくと分かると思いますけど、たいへんな人気店のようで揚げ物を待ってる人が店内にたくさんいらっしゃいました。

さぁ、ではそのコロッケです。
あまーくて最高でしたよ〜。

ミンチカツはかじった所を。
近くにあったらマジ通うレベルです(笑)

営業時間などはうらいさんのホームページでご確認ください。
以上、ふらっとウマ飯のコーナーでした〜。(ごちそうさま!)

おわりに

正直なところ、この石棺の話は最近になるまで聞いたことがなかったんですけど、この2つの石棺のパーツは直線距離で言うと3kmほどしか離れていないんで、もし誰か実行できる人がいれば物理的にもとに戻してあげてほしいですね。

ただ、投松のあたりは確かに坂がきついんで昔の人があきらめて帰ったっていう意味もわからなくはないです。(自転車で通るだけでもなかなか大変でした…)

では、今回の蓋と底がいつの日か元に戻ることを願いながら今回の記事を終了にしたいと思います。

ではでは〜。